一、柳生新陰流の歴史


◆創始からの新陰流
 新陰流を創始した上泉伊勢守藤原秀綱(後に信綱)は、戦国時代の末期(いまから約四百年前)の上州の人で、若くして刀、槍などの諸流に通じていました。ことに愛洲移香斎から陰流を学び、このなかから「転」(まろばし)という考え方を工夫発明して、新陰流を拓きます。
 一方、大和の柳生石舟斎宗厳は五畿内随一といわれた兵法者でありましたが、上洛した上泉伊勢守と勝負して敗れ、新たに弟子入りして新陰流を究めます。無刀の位について開眼した石舟斎は、伊勢守から正統第二世の印可を授けられました。ここに柳生新陰流の歴史がはじまったといえます。
 石舟斎の五男・宗矩が将軍家の兵法指南役となることで、柳生新陰流の名は天下に知られることになりましたが、惜しくも宗矩の子孫において剣術の相伝は絶えてしまいます。
 これに対して、石舟斎の孫の兵庫助利厳は、祖父の膝下で兵法を修練し、正統第三世の相伝を授けられました。兵庫助は尾張徳川家に兵法師範として出仕し、尾張柳生の礎を築きます。時流に適応した「直立たる身」の位を考案した兵庫助は、その子連也とともに新陰流を集大成するに至ります。これ以降、柳生新陰流は尾張藩に庇護されながら、その正統を脈々と今日まで受け継いできました。
●尾張柳生開祖
兵庫助利厳
●第五世連也厳包

◆近代以降の柳生新陰流
 明治以降、剣術の流派は苦難の道に立たされますが、尾張柳生の剣の歴史は脈々と続いていきます。なかでも特筆すべきは、大正二年に第十九世・柳生厳周が宮内省済寧館へ出仕したことです。柳生新陰流を永久保存したいという明治天皇の聖旨によるものでした。
 さらに第二十世厳長は、東京を拠点にして、柳生新陰流の普及に努め、近衛供奉将校団師範、武徳会全国各府県中央講習会講師などを歴任することになります。
 戦争によって徳川時代以来の名古屋の道場が焼失し、一時その活動すら危ぶまれた時期もありましたが、昭和三十年、東京柳生会が発足し、厳長を中心に活動を再開します。さらに厳長は『正傳・新陰流』(島津書房)を著し、新陰流の歴史や理論を体系化しました。
 昭和四一年、二十一世の延春が柳生会を継承し、東京、名古屋、大阪などを中心に教場をひろげ、会は耕一へと受け継がれ今日に至っています。
●新陰流第二十世宗家
  柳生厳長

◆柳生制剛流の歴史
 流祖水早長左衛門信正が僧・制剛から学んだとされています。水早は柔術、居合術の達人で、その高弟梶原源左衛門直景はこの技を尾張藩に伝えました。さらに新陰流兵法補佐として活躍した長岡房英は、制剛流抜刀術の奥義を究め、次代房成によってその術理が大成されました。
 制剛流抜刀は柳生厳周、厳長によって練り直され、柳生制剛流抜刀として、延春・耕一へと相伝され、今日に至っています。

 柳生新陰流三部作
『正伝・新陰流』

柳生厳長 著
島津書房 刊
5974円

『柳生新陰流道眼』

柳生延春 著
島津書房 刊
7573円

『剣道八講』

柳生厳長 著
島津書房 刊

4600円