一、文献


新陰流截相口伝書事
 『新陰流截相口伝書事』は、流祖上泉伊勢守信綱の口伝を整理して体系化した柳生石舟斎宗厳が、孫の柳生兵助長厳(後の兵庫助利厳)へ慶長八年(1603年)に伝授した目録であり、上泉師の兵法の考え方及び刀法を具体的に示したものである。
 宗厳は、永禄八年(1565)四月に印可を許され、翌九年五月には、
 『影目録』燕飛 (一巻)
      参学 (一巻)
      九箇 (一巻)
      七太刀(一巻)
の計四巻を相伝し、新陰流正統第二世を継承した。
没滋味手段口伝書
 宗厳は、織田信長に降った松永久秀に属したが、松永氏も滅びさらに足利幕府の滅亡を見るに及んで、柳生の庄へと隠遁し兵法鍛練の日々をおくることになった。ただひたすら兵法工夫に専念する年月も二十一年目をむかえた文禄三年(1594年)徳川家康の懇請をうけ、五男又右衛門宗矩とともに新陰流の神髄を演武した。その時の剣技に感嘆した家康は深く新陰流に帰依することとなり、徳川氏一門の「御流儀兵法」となる端緒が開かれたのである。宗厳六十六歳、宗矩二十四歳の時である。
 その後宗厳は嫡孫兵助(後の兵庫助)の育成へ全精力を注ぎ込んだ。資質に恵まれた兵助は、その期待を裏切ることなく大成の一途をたどり、ついには新陰流第三世の道統を継ぐに至った。
 慶長九年(1604年)八月、宗厳は後継者を兵助と認め、自己一代の工夫公案である『没滋味手段口伝書』(没滋味とは何の味わいも無い、即ち争闘私意の無い心の意)を記した。「天狗抄」「二十七箇条截相」「奥義之太刀」はこのときに加わった。
 この後さらに一年間秘蔵の後、極意三箇条を追記した上、古目録三巻とともにこれを兵助へと相伝した。
 兵助長厳が正統第三世を継承したのは、宗厳七十七歳、兵助二十八歳を迎ええた慶長十年(1605年)六月のことである。


●没滋味手段口伝書(写真をクリックすると拡大されます。)

始終不捨書
●兵庫助利厳画像
 元和六年(1620年)九月、尾張権大納言義利(徳川義利、後の義直。尾張徳川家初代当主)は新陰流正統第四世を継承した。その際、第三世柳生兵庫助利厳が他の目録、口伝書と共に自己一代の工夫公案の書として『始終不捨書』を進上した。この書は、流祖上泉伊勢守信綱、第二世柳生石舟斎の時代の刀法である介者剣術(甲冑をつけての剣術)の評伝、解説を明らかにした上で、新たな教えを確立した、一大改革の書である。
 介者剣術の「沈なる身の兵法」(鎧の重みに耐えうるよう腰を落した構え)は、戦国時代には必然的な構えでもあり、その枠の中で改革が成されてきたのも当然の事であるが、時が移り太平の世ともなれば、それに即した変革が当然必要となってくる。「兵法は時代によって、恒に新たなるべし。」という流祖以来の訓示にもあるとおり、それを達観した利厳は、流祖より続く教えを「昔」の教えとし、慶長、元和期の「今」に即した新しい兵法の術理の極意を確立したのである。
 「沈なる身の兵法」から平常服のままのより自由な剣法である「直立たる身の兵法」(つったたるみのへいほう)への移行は必然とも言えるが、日本の全剣術史における一大改革であることに間違いはなく、第三代兵庫助利厳の偉業であり、新陰流の誇れるところといえる。また当時利厳はすでに尾張藩の兵法指南を勤めており、将軍家の指南である江戸柳生家にその極意は伝わっておらず、尾張柳生家独特の刀法として今日を迎えたのである。
新陰流兵法目録(連也口伝書)
 新陰流正統第五世となった、柳生連也斎厳包が十二、三歳の頃に書いたものとされる口伝書である。流祖から石舟斎までの昔の教えを「本云」「本曰」とし、師父利厳が解説した新時代に即した新しい今の教えを「厳曰」と記し、簡潔に伝述している。新陰流兵法目録全四巻の各条目の全てに、初めて全口伝書を付記したのが、わずか十三歳ばかりの少年の手によるものだというのだから驚きである。不世出の天才兵法家と云われた厳包は、こういった分野でも才能の一端を表していたのである。しかし、彼はこの口伝書が完成しても生涯他人に開示することはなく、そのまま封印をして第八代を継ぐ甥の厳延に渡した。「この厳封を開くものは、摩利支尊天の神罰を蒙りて、瞑目となる可し」と表書きされた密書は、厳包より三代後、正統第十一世柳生厳春までついにあかされることはなかった。厳春はそのとき非常な信念をもって厳封を解いたとされるが、それにより得た一大光明は今日に至るまで代々の師範の方々にと読み継がれている。
●連也厳包画像